#10. 容疑者  Suspicion

Photographer 大村 アツシ   Writer 高山 直也   Navigator 吹越 満   吉田 朝

【ストーリー・前編】

風の強い日、吹越はいつものように庭園で紅茶を飲んでいる。そこへ吉田が颯爽と登場する。
「どうも。」
「やあ。」
「先週もTrapを解くのに朝までかかりましたよ。今日はどんなTrapで楽しませてくれるんですか?」
「殺人事件が起こったら、まず我々は何に関心を抱くだろう?」
「それは、『犯人は誰か?』」
「そう。しかし、浮かび上がる容疑者はいつも一人とは限らない。同じ動機を持つ人間が複数存在した場合、犯人を断定する要因は、誰が犯行を為し得たかということにある。その際に余計な先入観で容疑者を判断してはならない。無実の罪を作りだしてしまうからね。」
「確かに。」
「容疑者は2人。タクシー運転手の長谷川邦宏と外科医の大川誠だ。2人とも同じ男を殺したいと思っていた。つまり2人とも犯人になる可能性を持っていたんだ。しかし、殺したのは2人のうちのどちらか1人。君にはこれから話す事件においてどちらが犯人なのか、それを推理してもらいたい。」
「わかりました。」

「まずは事件のあった6月10日の2人の行動から振り返ってみよう。物語は一本の電話から始まる。」






電話が長谷川宅に鳴り響いた。
N:その日長谷川は夜勤を前に自宅で少し早めの夕食を取り終え、くつろいでいた。午後6時のことだった。
「はい、長谷川ですが。」
「俺だよ。猿渡だ。」
「猿渡か..」長谷川の顔がこわばる。
N:猿渡というのはケチなゆすり屋で、長谷川は昔起こした轢き逃げ事故をネタにここ数年毎月某かの金を猿渡に口止め料として支払っていたんだ。
「また懐が寂しくなってきてな。今夜辺り頼むよ。」
「そんな急に。」
長谷川は声を潜めながら答える。
「無理だ。それに今夜は...」
長谷川の言葉を遮って猿渡は続ける。
「11時半に、いつものところで。」
「おい、ちょっと...」
ブチッ、電話は切れた。
N:こんな風に猿渡の要求はいつも一方的なものだった。しかし、弱みを握られている者にそれを断る術はない。要求を拒否することは即ち自分の破滅を意味しているんだからね。

「おい。」
「え?」
「金、都合つけてくれないか?」
「また?いったい、いつもいつも何に使うの?少しは生活のことも考えて下さいよ。」

「わかってるよ!」
(チクショウ!何で俺ばっかり。)


N:だが、この日電話を受けたのは何も彼ばかりではなかった。勤務を終え帰宅したばかりの外科医大川もまた猿渡からの電話を受けていたんだ。
大川宅で電話が鳴る。
「もしもし、...」
大川の顔が引きつる。
「またお前か。」
N:幸せそうな家庭を持っている大川だが彼にも暗い過去かある。彼は数年前患者を誤診し死に至らしめている。幸い事件は表沙汰にはならずに済んだが、どこからか猿渡が嗅ぎつけた。大川は口止め料のため数年前から病院の金まで手につけていたんだ。
「11時半にいつものところだな。」

「病院から?」
「う、いや。」
「良かった。またこれからお仕事かと思った。あ、そうそう内科の石川先生からお薬いただいておいたわよ。今年の風邪は鼻に来るって。」

N:大川もまた長谷川と同じように要求を拒否することができなかった。猿渡のゆすりで窮地に陥ったといっていいだろう。
大川は頭を抱えた。
(どうする?これ以上金を払い続けるのは無理だ。病院の金にも手をつけてしまったし。
せっかく院長から次期外科部長の推薦を受けたのに。誤診や使い込みがバレたら、俺は間違いなく破滅だ!)


長谷川はタクシー会社の乗務員控室で上司に金を無心する。
「お願いしますよ。必ず今度のボーナスで返しますから。」
「ダメだよ。ダメ。」
「そこをなんとか。ホントに困ってるんですよ。助けると思って。お願いしますよ。」
(どうすりゃいいんだ。銀行、サラ金、友人、会社。もう俺に金を貸してくれるところなんて。
せっかく生活も安定したのに。事故のことが会社にバレたら、俺は間違いなく破滅だ!)






「なるほど、つまり大川、長谷川両方とも猿渡を殺害するには十分な動機があったわけですね。」
吹越は写真を提示する。
「これが被害者。左頚部から右胸部にかけての傷が致命傷となっている。死亡推定時刻は彼の時計から6月10日11:27と考えられる。」
吉田は何かを悟ったかのようにニヤリと笑う。
「何か見つけたのかい?」
「いいえ。」
しかし、吉田の発言には自信があふれていた。
「既にどちらが犯人なのか特定できるいくつかの要素は提示されている。」
「そのようですな。話を続けて下さい。」
「ああ。」






駅の雑踏の中に大川が現れた。
N:7:10外科医の大川は妻に適当な口実を告げ、猿渡との約束の場所である郊外の廃工場に向かっていた。
「7:20発 急行小田原行きは...」
駅の構内アナウンスが聞こえる。
N:まわりくどい交通手段であるが、電車を使った方が渋滞で遅れる心配はない。大川は慎重に行動していた。

N:7:20タクシードライバーの長谷川は勤務中でありながら、猿渡との約束の場所である郊外の廃工場に向かって車を走らせていたいた。
「ここで天気予報です。夕方から降出した雨は今夜半には止み、明日は曇り後晴れと...」
カーラジオでは天気予報が伝えられている。
N:長谷川は空車のランプをつけて走っていた。しかし、これから自分がやろうとしていることを考えると仕事どころではなかった。

大川は電車に揺られている。
「次は用賀、用賀...」電車のアナウンスが聞こえる。

長谷川は車を走らせる。
「では、ここで午後9:30現在、首都圏の交通状況をお伝えします。環状7号線内回り世田谷通り付近を先頭に...」
ラジオは渋滞情報に変わっている。

大川はコンビニで本を立ち読みしながら考える。
(問題はいかに完全犯罪を達成させるかだ。常に犯罪の決め手になるのはアリバイ。アリバイを作るためには猿渡を迅速に殺し、何喰わぬ顔して友人の前に現れる。約束より少し早めに行って、奴が油断しているのを後ろからこっそり近付き、いつも使っているメスで動脈を切り裂く。血が流れ出てアイツがヒクヒクする。動脈から血が出る。アイツがヒクヒクする。口を開けてヒクヒクする。)
ピーピーピー。腕時計のアラームが鳴った。時刻は9:45。
(そろそろ、行くか。)

長谷川は運転しながら考える。
(俺に人が殺せるのか?待てよ、俺は今仕事をしている。どこかで客を乗せ、口実をつけて、工場の近くで少しの間、抜け出せれば。約束より少し早めに行って、奴が油断しているのを後ろからこっそり近付いて奴の背中からナイフで一刺し、何度も何度も奴を刺す。肉からグニョーっと音を立てる。)
プーッ。後ろからクラクションが鳴り響いた。
前方に人影が手を上げている。
(今日はツイてるなぁ。そろそろ行くかぁ。)
長谷川は客に振り返り、満身の笑みで挨拶する。
「毎度どうも。どちらまで?」

「急いでくれ。」
大川は運転手にそう一言だけ告げた。

「♪愛だからできない 偽りだから知りたい 謎だから...」ラジオから大黒摩季の曲が流れる。
長谷川は口元から笑みがこぼれ落ちている。

(計画はうまくいくだろうか?相手もただものじゃないし。)
大川は頭を手で押さえ、苦しそうにする。
(う...あ、熱い。)

長谷川は軽く振り返って、後ろの様子をうかがう。
(しゃべっちゃダメだ。印象に残らないようにしないと。)

大川の調子はますます悪そうになる。
「と、止めて。止めてくれ!」
急ブレーキを踏むタクシー。
大川はよろけながら車外に出て、道端で座り込む。

(チックショウ。)
長谷川は後ろをルームミラーで確認しながら舌打ちをした。
(早く行かないと...)
「♪イヤだから感じたい」ラジオから曲が流れ続けていた。

N:大川は自分が行うべき行為の恐怖のため、約束の場所である工場近くでアルコールを口にする。
彼の心情はこのとき計り知れないものがあったはずだ。しかし、約束の時間は迫っている。完全犯罪を達成するためにも急いで行かなくてはならなかった。
彼の腕時計は11:12を指していた。

N:長谷川の心境もまた計り知れないものがあったはずだ。完全犯罪を達成できるかより、猿渡を殺さなくてはならないという気持ちの方が大きかったはずだ。そんな気持ちに突き進められ、長谷川は工場の中に入っていった。
真暗な工場の中、懐中電灯の明かりを頼りに歩き進んでいく長谷川。途中その灯が猫に当たり、猫は鳴き声を立てる。驚く長谷川。
そして階段を上がって彼が目にしたのは椅子に座る猿渡の姿だった。
「ウワーッ!」工場の中に響きわたる叫び声。

大川もまた工場の中を歩き進む。途中で猫と目が合い、鳴き声を立てられてしまう。階段を上がるとそこには椅子に座った猿渡が。
「ウワーッ!」絶叫が工場の中こだまする。

殺された猿渡の時計は11:27を差したところで止まっていた。アナログ時計の日付表示は10日を示していた。
猿渡の死体には、黒いシャツの上から左頚部から右胸部にかけナイフの刺し傷が生々しく残っていた。






「なるほど、それで終わりですか。」
「補足するなら猿渡を殺した犯人は殺害後、こみ上げる嘔吐感を堪えつつ、しなければならないことを片付けたようだ。」
「『しなければならないこと』ねぇ。」
「ほう、今日はTrapがわかったようだね。」
「まあね。謎解きの前にもう一杯いかがですか。」
お茶をすすめたのは吉田の方だった。
「いただこう。」


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